ゆとり世代という言葉が、褒め言葉に使われることはない。
大体、常識がないとか、敬語の使い方がなってないとか、先に社会人になったものが若者を揶揄した表現である。
うちの会社にもびっくりするような新入社員が毎年入ってくる。
なんでそんなことも知らないの?なんでそんな態度をしているの?と驚くのだが、面白いもので慣れてきた。「今年はどんなゆとりかな~。」ぐらいの感覚になってる。
ここで使っている「ゆとり」という言葉は、一括りでバカにしたような表現なので、簡単に使うべきではないね。自分自身を注意するためにあえて書いたけど。
そんなゆとり世代に関する所感を書いてみる。
ゆとり世代とは。
ゆとり世代と言われる人の目安となる期間は、1987年4月から1996年3月生まれである。
使われた「学習指導要領」が何であるかということがポイントとなる。
詰め込み教育からゆとり教育に方針を転換したことが理由となっている。
授業時間を減らしたり、授業内容を削減したりして、ゆとりを作るという考え方なのだろうが、その代償として学力の低下が問題とされてきた。
つまり本人たちが自ら「ゆとり世代」を形成したのではない。国の教育政策の一環なのである。
教科書で習う円周率を3にするとかいう話を聞いたとき、その内容の削減に何の意味があるのか分からなかった。今の教科書ではどうなってるのかは知らないけど。
私が理解しているゆとり世代とは、ゆとりを持つために学習指導要領を変更され、学力低下が問題とされる世代のこと。本人たちがなりたかったわけでもないし、人間としての成長に何の問題があるのかは分からない。
会社では学力低下以上の扱いも見受けられる。
ゆとり世代は、授業時間が少なく、授業内容も削減されたものであったことは間違いない。
その世代では無い人は、より長い時間、より多くの知識を詰め込まれたはずだ。
そのことで、ゆとり世代とそれ以外の世代で、ゆとり世代の方がダメだというのは早計すぎるだろう。
どんな世代だろうと、社会人の先輩は新入社員や後輩をバカにするのは、今も昔も変わらないはずだから。
それはそうだろう。学生社会しか知らなかった人間を、社会人から見たら世の中を知らない人間に見えて当然だ。先輩への接し方も、上司へのゴマのすり方も知らないのだから。
言葉遣いもその時代その時代で違うのである。どの世代であろうと、年上の人たちから見たら注意したくなって当たり前だと思う。
となると、ゆとり世代ということだけをもって、その人個人の人格を否定するような指導をするのは間違っている。
どんな世代だろうと関係なく、先輩や上司は、新入社員を一人前に育てることを仕事の一環として行う必要があるのだ。
それをゆとり世代という言葉を使って逃げるのは卑怯である。
特別にすごい新入社員はその個人がすごいのだ。
たまに、すごい新入社員が入ってくる。採用試験にパスしたのだから、筆記試験や面接などはクリアしてきているということだ。
つまり、そこのふるいにはかからなかったが、いざ職場に配属されると「嘘でしょ!?」と思われる悪い意味の実力を発揮しだすタイプがいる。
それはその世代がすごいんじゃない。その個人がすごいのだ。
笑えてくるレベルの新入社員も本当にいるもんな。採用試験はどうなってるんだ?と思えるほどの奇跡の人材が。
そういう人材もどの世代にもいたはずだ。ゆとり世代にだけいる存在ではない。
歴史は繰り返す。
昔の人はいい言葉を遺している。「歴史は繰り返す。」という言葉だ。これは色んな物事に当てはめることが出来るが、会社内の出来事にはぴったり当てはまる。
大体、人は過去を美化して語りたがる。美化にも色々あって、自分たちは苦労したというような話を会社の上司や先輩は語りたがる。
自分たちの時代は大変だった。残業も多かった、休みもなかった、給料も安いながらに頑張ったとか、とにかく大変だった自慢が好きだ。
これはまた、自分たちにも言えるのだ。自分たちは大変だった。今、新入社員で入ってくるものたちは恵まれている、と。自分たちは詰め込み教育で大変だった。ゆとり世代は楽だっただろう、というような目で見ていないだろうか。
結局、こういう見方は繰り返していくのだ。新入社員が、働いて金を稼ぐ仕組みに組み込まれる様を見ては、なっちゃいないな、と思うのだ。
全体的な学力低下は肌で感じるところもあるから、確かにその世代の弱みかもしれない。
ただ、優秀な人材もいれば、ダメな人材もいるのも普遍的な話であるから、その世代の弱みを知った上で、指導力を試されていると考えていくのが建設的であろう。